古都ブログ
大幸寺
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北野白梅町駅から徒歩15分(1.2km)のところにある 大幸寺では江戸時代から、
新そばの出回るころになると仏事として
お寺の方総出で檀家の方にそばをふるまったそうです。
代々の住職は寺秘伝のそばを振る舞うことによって
邪気を払って無病息災を祈ったらしく、住職はみなそば打ち名人だそうです。
境内にある地蔵尊は通称、そば地蔵とよばれ、
一度も種をまいたことがないのに
その周りには蕎麦の花が咲くそうです。
このご時世でもありますので、無病息災の為にそばを食べてみたいものですね。
浄福寺通り
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浄福寺通は京都市の南北の通りの一つです。
カフェや店舗などもあり、整備されていて歩きやすい通りです。
近くには雨宝院や本隆寺などもあり、土日は人でにぎやかになります。
江戸時代には二条城の北西側に京都所司代下屋敷があったそうで、
浄福寺通は下立売通で終わっていましたが、
明治を迎え、京都所司代下屋敷が取り壊された後に、竹屋町通まで通が伸びたそうです。
通りの名前の由来の浄福寺は一条にありますので、
そちらの方も時間がある際には見に行ってみてくださいね。
引接寺「千本ゑんま堂」
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千本通廬山寺上る閻魔前町にあり、本尊には閻魔法王が祀られております。
西暦850年、朱雀大路(千本通り)の北側は平安京の墓地の一つ蓮台野(れんだいの)と
呼ばれる大きな墓地があり、その当時の平民は風葬だったそうですが、
小野篁(おののたかむら)が閻魔(えんま)法王を祠を立てて安置し、死者の魂を弔ったことに始まります。
平安時代に死者と一緒に無数の石地蔵が埋められており、
その地蔵が本堂の裏側にある賽の河原(三途の川)を模して造った場所に祀られています。
本堂から雰囲気ががらりと変わり、1~2度気温が下がります。
裏にもお堂があり、定期的に占いを開催しているそうです。
ゑんま様の役目は、この世とあの世で死を迎えた人間の行き先を裁判で決めることです。
三悪道と呼ばれる地獄・飢餓・畜生の道にいかないように、怒りの表情で地獄を語り説いているそうです。
死者の魂をお送りし、塔婆供養と迎え、鐘を用いて先祖の魂を再び、
この世に迎えて供養したそうで、今でもお盆に「お精霊(しょうれい)迎え」として行われています。
毎年2月3日の節分と5月1~4日に行われる「ゑんま堂狂言」は、
京都三大念佛狂言のひとつだそうで、室町時代から続いていますので、一度見てみたいですね。
首途八幡宮
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こちらには、かつて金売吉次の屋敷があったと伝えられています。
お社は御所の大内裏の北東(鬼門)に位置することから、
御所を守る王城鎮護のお社として重んじられていたそうです。
西陣五水(上京区西陣付近の5ヶ所の名水です)の一つ「桜井」は、
首途八幡宮の社務所内にあったと伝えられ、 現在はこのすぐ北隣にある桜井公園に模造されています。
写真をとったこの日も社務所内ではお茶会が行われておりました。
名水ですので、きっと格別においしいのだと思います。
手水舎には鳩が水を出しており、あまり見ないデザインですが、
鳩は八幡神の神使いだそうで、八幡神社には鳩がそのシンボルマークとして、あちこちに飾られています。
源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立をした場所だそうです。
「首途」=「出発」の意味ということで旅立ちや旅行の安全の
信仰の対象として今も地元の方から親しまれています。
鯖街道口
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出町橋の西詰北側にこちらの石標が立てられています。
京都と若狭湾を結び、主に魚の輸送路となっており、なかでも鯖が多く運ばれたことから
「鯖街道」と呼ばれるようになりました。この石標は鯖街道の起点を示すものです。
「鯖街道」は若狭国(現在の福井県)の小浜藩領内と
京都を結ぶ街道の総称で、今の国道27号や367号におおむね相当するそうです。
当時は約80kmの道のりを運び手が輸送していました。
若狭湾から水揚げされ塩づけされた鯖が、一昼夜かけて運ばれ京都に
着くころにちょうど良い塩加減になります。
冬の方が寒さで身がしまり、美味しかったそうですが、
冬は峠越えが厳しく峠越えの最中に命を落とす方もいたそうで
過酷な道のりだったことを想像します。
国道367号沿線等には鯖寿司関連のお店が多く存在しており、
鯖寿司の有名店が軒をそろえています。
京都に来た時には、ぜひ鯖寿司もご賞味ください。