要法寺
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要法寺は日尊上人が全国布教活動の拠点として建立した
法華堂を起源とする日蓮本宗の寺院です。
境内には厄除けに使われていた巨大な鬼瓦があり、
いかにも厄が逃げてしまいそうな迫力のある表情をしています。
また、要法寺の池に住むカルガモの親子が、
鴨川まで道路を歩いて引っ越しする様子は
毎年報じられており、初夏の風物詩の光景となっています。
毎年6月のはじめにカルガモの引っ越しは行われています。
実際に見ることができた人は、かなりラッキーですね!
要法寺は日尊上人が全国布教活動の拠点として建立した
法華堂を起源とする日蓮本宗の寺院です。
境内には厄除けに使われていた巨大な鬼瓦があり、
いかにも厄が逃げてしまいそうな迫力のある表情をしています。
また、要法寺の池に住むカルガモの親子が、
鴨川まで道路を歩いて引っ越しする様子は
毎年報じられており、初夏の風物詩の光景となっています。
毎年6月のはじめにカルガモの引っ越しは行われています。
実際に見ることができた人は、かなりラッキーですね!
藤井右門は江戸中期の尊王論者です。
尊王論とは、天皇の絶対的権威を認め、
皇室を尊崇するという思想です。
1735年に京都で竹内式部に入門し儒学や神道を学び、
学を修めて皇学所教授を務めながら、
公卿に尊王論を説きました。
1758年の「宝暦事件」で竹内式部が捕らえられると京都を逃れ、
江戸の山県大弐の塾に入門し、その家に身を寄せます。
しかし後に、「明和事件」の首謀者として、
山県大弐とともに謀反人として捕らえられ、
処刑されてしまいます。
この石碑があったところが、
藤井右門が上洛してから江戸に亡命するまでの
約20年間を過ごしたところです。
また、この旧宅は近くに薩摩藩邸があったので、
志士たちの会議連絡場所としても活用されていました。
淀は宇治川、桂川、木津川の三川合流地点であり、
かつて東には巨大な池も広がっていました。
標高11mの低湿地帯のため、
水が淀み「淀」と名付けられたとか・・・。
淀城は江戸時代に徳川秀忠の命により松平定綱が築いた城です。
また、豊臣秀吉の側室である茶々が
「淀君」と呼ばれる由来となった城でもあります。
現在は淀城跡公園として整備されており、
石垣や天守台が残っています。
清涼寺は、東大寺出身の僧侶、奝然(ちょうねん)が
中国(宋)から持ち帰ってきた釈迦像を安置するため、
1016年に奝然の弟子・盛算によって建てられました。
この釈迦如来立像(国宝)は、
胎内に絹製の五臓六腑が入っていたことから
「生身の仏像」とも呼ばれています。
境内にある一切経蔵の中には、
お経が納められている輪蔵という巨大な厨子が安置されています。
輪蔵は、一度回転させるとお釈迦様がお説になった法典を
すべて読んだのと同じ功徳が得られるといわれ、
平安時代から室町時代にかけて盛んに造られました。
現在は非公開となっている寺院が多い中、
清凉寺の輪蔵はなんと実際に回すことができます。
高さが2m近くある巨大なもので、
美しい装飾が施されているのが特徴です。
ぜひ貴重な体験をしに清凉寺に訪れてみてはいかがでしょう。
三条木屋町の繁華街の中にひっそりと佇む瑞泉寺。
この場所で今から400年前に悲しい事件が起こりました。
豊臣秀吉から関白の位を譲られ聚楽第に住した秀次が、
悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられました。
1595年に高野山で自刃させられた後、
その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原で公開処刑されました。
瑞泉寺に伝わる絵縁起によれば、
一族の遺骸を埋葬した処刑場の地には大きな塚が築かれ、
塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」と刻した石塔を据えて
往来人への見せしめにしたという。
16年後、角倉了以が高瀬川の開削の際に荒廃した塚と石塔を発見し、
大層心を痛め、無念の死をとげた一族を弔うためにこの瑞泉寺を建立しました。