雪駄屋町通り(京都通り名・東西編⑲)
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「雪駄屋町通り(せったやまちどおり)」
東は東洞院通から西は堀川通までの短い路となっています。
江戸時代に高倉通から醒ヶ井通間の沿道に、
雪駄屋が多く立ち並んでいたそうで名の由来となったようです。
雪駄屋町通りは別名「楊梅通り(ようばいどおり)」とも呼ばれています。
平安時代に貴族の邸宅街であったため、
その一帯で楊梅(やまもも)の木が植えられていたことから
名の由来とされているそうです。
「雪駄屋町通り(せったやまちどおり)」
東は東洞院通から西は堀川通までの短い路となっています。
江戸時代に高倉通から醒ヶ井通間の沿道に、
雪駄屋が多く立ち並んでいたそうで名の由来となったようです。
雪駄屋町通りは別名「楊梅通り(ようばいどおり)」とも呼ばれています。
平安時代に貴族の邸宅街であったため、
その一帯で楊梅(やまもも)の木が植えられていたことから
名の由来とされているそうです。
「五条通り(ごじょうどおり)」
五条通は平安京の六条坊門小路にあたり、
東は五条坂から西は西大橋東詰めに至る全長約6.1Kmの通りです。
現在では京都最大の東西路線だそうです。
昭和19年から戦争の軍事目的のため、
五条坂から堀川までの多くの住民が強制疎開され、
現在の大動脈につながったとのことです。
五条通りより東は東大路通との交差点で「五条坂交差点」付近
から「五条坂」と呼ばれている、清水寺に続く道です。
現在の「松原橋」である「京の五条の橋」で、
牛若丸と武蔵坊弁慶が出会ったとされており、
現在の五条大橋の西詰中央分離帯には
牛若丸と弁慶の像が置かれています。
また五条河原町を少し南へ行くと女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、女性全ての願い事にご利益があるという市比賣神社があります。
女性にご利益のある市比賣神社で人気のおみくじです♪
五条通り沿道の建造物
・牛若丸弁慶像
・市比賣神社
・本覚寺 等
「万寿寺通り(まんじゅじどおり)」
万寿寺通は、 平安京の樋口小路にあたります。
松原通と五条通の間を走る通りです。
この通の名になった万寿寺は現在この通りには存在しません。
合併などを経て現在の東山にある臨済宗東福寺の境内へと移されたそうです。
こじんまりとした通りですが、製麺所や菓舗や仏壇屋などがあります。
どれも昔ながらの雰囲気があり、歩いて散策する方も多いようです。
万寿寺通ろ沿道の建造物
・六波羅蜜寺
・万寿堂菓舗 等
「松原通り(まつばらどおり)」
清水寺から新撰組ゆかりの史跡が数多く残る壬生を結んでいる路です。
応仁の乱以降、京都の町は荒廃してしまい公家町を中心とした上京、
祇園社の氏子衆を中心とした下京に分かれ、
今の中京区のあたりは荒涼としていたそうです。
上京と下京とは室町通で繋がっていたようで、
その下京の南の端が五條大路となっておりました。
五條大路は同神社の参詣道となり、
道の両側には松が植えられ松林となっていたそうです。
そして、誰言うことなく「五條松原通り」となり、
次第に五條が取れて「松原通り」と呼ばれるようになったそうです。
現在の松原通は寺町通から烏丸通間はビルやマンションが多くみられますが、
鴨川から東と、烏丸通から西の大部分は路も狭く、
のどかな商店街や下町の雰囲気が残る通りとなっています。
松原通り沿道の建造物
・五条天神社
・六道珍皇寺
・六波羅蜜寺 等
「高辻通り(たかつじどおり)」
平安京の高辻小路にあたる。
東は鴨川右側堤防から西は梅津街道まで続いているます。
醒ヶ井(さめがい)通との交差点付近が
洛中で一番高い所だったことが通りの由来となる。
高辻通り沿道の建造物
・仏光寺