古都ブログ
先斗町
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先斗町(ぽんとちょう)は京都で有名な花街の1つとして知られています。
先斗という語源には、色々な説があるとされています。
一説によれば、先斗町が鴨川と高瀬川の2本の川に挟まれていることを、
皮と皮に挟まれた鼓にたとえられ、その鼓の叩く「ポン」という音から
「ぽんと」と呼ばれるようになったとか・・・
また、ポルトガル語のponto(「先」の意)からそう呼ばれるようになったという説も。
当初、この地では、高瀬川を上り下りする船頭や旅客のための旅籠屋や茶屋が建ち並んでいました。
現在では、茶屋はもちろん多くの料亭や「鴨川をどり」で有名な歌舞練場などがあります。
ちょうどこの時期には、夏の風物詩でもある「川床」がでており、
河原沿いがいつもより賑わいをみせています。
錦天満宮
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■由緒沿革
当天満宮は平安時代前期の十世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公(菅公)の生家『菅原院』に創建されました。
菅公薨去の後、菅原院は『歓喜寺』と寺名に改称、その後、嵯峨天皇の皇子源融公の旧邸六条河原院に移山※1、塩竈宮を鎮守に天満大自在天神をお祀りしました。
(※1)寺院が他の地に移転すること
三百年後、この地は、後に、時宗道場、歓喜光寺と称される京都八幡の善導寺に寄進され、同時に、歓喜寺(菅原院)は『天満宮』に改められ崇敬、奉祀されました。当錦天満宮は歓喜寺に由来しており、又、菅公聖跡二十五拝※2の第二とされるのはこの伝承によるものです。
(※2)菅原道真公を祀る天満宮の中で、特に由緒の深い二十五社
そして、「歓喜光寺」の創建から274年後、桃山時代天正年間に行われた豊臣秀吉の都市計画によって、時宗四条道場としても有名な「金蓮寺」の敷地に移転。以後400年余、「錦天満宮」として同地に鎮座しております。このような歴史の中、享保十四年(1729年)には前関白輔実公の申請で唐破風獅子口を許され、明治五年(1872年)には神仏分離令によって社が独立。「歓喜光寺」は東山五条へ(後に山科へ)と移り、残された神社は、同年、新京極通開通の際に社地を縮小し、現在に至っております。
京都タワー
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京都は言わずと知れた歴史的建造物の宝庫。
そんな京都ですが、お越しになった多くの方々は駅前でこのタワーを目にされるのではないでしょうか。
京都駅烏丸中央口前に大きく聳え立っている。台座となっている京都タワービルを含めた高さは131mあり、京都市内では最も高い建造物である。
1953年、京都駅北側の土地に建っていた京都中央郵便局が移転することが決まり、移転後の跡地の活用が検討されていた。またこの土地は国際文化観光都市たる京都の表玄関、京都駅の真正面に当たる物であり、それに相応しくまた公共性に富む土地活用が求められていた。京都商工会議所主催の懇談会で株式会社物産観光センター(のちに株式会社京都産業観光センター)の設立が決まり、翌1959年4月11日、創立した。
一説には、京都市内は北に上がるにつれ、標高が上がり京都市内北部と京都タワーの高さが同じくらいという噂を聞いたことがありますが、実際はそれ程高い訳ではないそうです。
京都タワー付近の標高は約30m
京都市内最北部の大通りである北山通りの標高は約75m
ただ観光名所である金閣寺、銀閣寺の標高は約100mと確かに高低差はあるようです。
実際、北部から南部への移動は自転車でも楽ちんです。
北部に行くのも、徐々に上がっていくので、それ程大変ではないですよ。