古都ブログ
千本通り(京都通り名・南北編㉚)
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「千本通り(せんぼんどおり)」
北は北大路通から南は九条通まで至り、
やや屈曲してそのまま南下し旧鳥羽街道につながっている路。
七条から八条までは梅小路公園、京都鉄道博物館などで中断しており、
九条通より南は鳥羽街道とも呼ばれています。
しかし、碁盤の目の通りの中では1番長い路と言われています。
平安京が造営された794年、皇居すなわち大内裏の玄関である朱雀門から、
平安京の入口となる羅城門まで一直線に向かうその道を「朱雀大路」といいました。
この朱雀大路が後の千本通の原型となります。
「千本通り」の由来としては「何が千本あったのか?」
と幾つかあげられるものがありますがその中でも、
雅な由来・恐ろしい由来とあります。
気になる方は一度検索してみてください。
千本通り沿道の建造物
・JR二条駅
・京都市中央卸売市場
・京都鉄道博物館 等
浄福寺通り(京都通り名・南北編㉙)
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「浄福寺通り(じょうふくじどおり)」
北は西陣の寺之内通から南は竹屋町通りに至る路でしたが、
現在は洛北の宅地開発による市街地の拡大によって、
北は船岡山・鞍馬口通まで延伸しています。
通りの名の由来となったのは京都市上京区笹屋町にある浄福寺。
西陣の町屋が連なる浄福寺通沿いに、
赤い門があり全体に朱が塗られているので近所の人は赤門と呼び、
寺の名も赤門寺と呼ばれ庶民に親しまれているお寺だそうです。
その赤門は秀吉がつくった聚楽第の一部分ではないかという説もあるそうです。
浄福寺通り沿道の建造物
・浄福寺
・慧光寺
・京都市立正親小学校
智恵光院通り(京都通り名・南北編㉘)
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「智恵光院通り(ちえこういんどおり)」
北は北大路通の大徳寺門前から南は竹屋町通まで、
南は下立売通までだったそうですが、
明治8年(1875)中務町ができたとき丸太町通まで開通し、
さらに昭和4年(1929)竹屋町通まで開通しました。
しかし、現在は戦時中に開通した西院町の新道の方が
智恵光院通と呼ばれているそうです。
通りの名ともなっている智恵光院が健在し、
聚楽第※があったとしても有名な通りです。
(※豊臣秀吉が「内野(うちの)」に建てた政庁・邸宅・城郭)
智恵光院通り沿道の建造物
・智恵光院
・櫟谷七野神社
・首途八幡宮
・本隆寺 等
日暮通り(京都通り名・南北編㉗)
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「日暮通り(ひぐらしどおり)」
中立売通から出水通で屈曲し、二条城の北側に至る約1kmほどの路です。
丸太町以南ではすぐ西を「西日暮通(にしひぐらしどおり)」が並行しています。
豊臣秀吉が築いた幻の”聚楽第”その正門である「日暮門」に由来し、
あまりの美しさに日が暮れるまで眺めていた事が由来とされているそうです。
聚楽第の施設や秀吉ゆかりの武将の名にちなんだ町名が現在も残されていて、
往時の繁栄を感じられます。
日暮通り沿道の建造物
・等観寺
・佐々木酒造(俳優 佐々木蔵之介さんのご実家)等
松屋町通り(京都通り名・南北編㉖)
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「松屋町通り(まつやちょうどおり)」
一条通から出水通の間で屈折し、
二条城の北で一度中断されている約1km程の短い路です。
さらに二条城の南からは距離があいて、
松原通から正面通の龍谷大付属平安高校あたりまでの
区間は下松屋町通とも呼ばれているそうです。
豊臣秀吉の天正の地割によって作られた突き抜け (割って作った道路)
と言われています。
松屋町通り沿道の建造物
・松永稲荷社
・了信寺 等