馬町(京都交差点名・東山区編②)
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「馬町(うままち)」
東山五条を下がった二筋目の交差点名は「馬町」。
由来については、六波羅探題から幕府へ駿馬を送る際の係留地で、
見物人が群れをなしたから、馬市が開かれたから、など複数の説があるそうです。
近隣には、京都女子中・校・大があり、
女子生徒で賑わい華やかな地でしょう。
馬町近隣の建造物
・京都女子中学校・高等学校
・京都国立博物館
・フォーシーズンズホテル京都 等
「馬町(うままち)」
東山五条を下がった二筋目の交差点名は「馬町」。
由来については、六波羅探題から幕府へ駿馬を送る際の係留地で、
見物人が群れをなしたから、馬市が開かれたから、など複数の説があるそうです。
近隣には、京都女子中・校・大があり、
女子生徒で賑わい華やかな地でしょう。
馬町近隣の建造物
・京都女子中学校・高等学校
・京都国立博物館
・フォーシーズンズホテル京都 等
「今熊野(いまぐまの)」
東大路通でJRが下に走っている高架の交差点です。
後白河上皇が清盛に命じ、熊野の新宮・法住寺殿の鎮守社として造営させた、
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)に由来している。
「新」には「今」の意味があり、新しく建立された熊野神社を表しているそうです。
今熊野近隣の建造物
・新熊野神社
・大谷中学高等学校 等
「百万遍(ひゃくまんべん)」
京都大学のある京都では有名な交差点ですが、
百万遍という地名ではありません。
実は知恩寺の正式名称が「浄土宗大本山 百萬遍 知恩寺」といい、
この寺がここにあったことからその辺りを「百万遍」と呼ぶようになったそうです。
1331年(鎌倉時代)に地震が原因の病気が流行り、
後醍醐天皇の名を受けて、空圓というお坊さんが弟子たちと一緒に、
7日7夜にわたって大きな数珠を回しながら百万遍(100万回)の念仏を唱えたことが百万遍の由来となっています。
ちなみに「知恩寺」の由来は、今から八百数十年前にさかのぼります。
浄土宗を開いた法然というお坊さんが、神宮寺というお寺に住んで念仏を教えを説いたのが始まりです。
法然が亡くなってから、お弟子さんである源智というお坊さんが、
師匠の恩に報いるため、「恩」を「知」らなければらなないということから「知恩寺」と名付けられたそうです。
現在の百万遍は、京都大学の学生で賑わう活気のある街となっています。
百万遍近隣の建造物
・知恩寺
・京都大学
・吉田神社 等
「高野(たかの)」
高野と言えば、出町柳の鴨川から西と東へ分岐し、
左へ分岐した川の名が淀川水系の一級河川「高野川」と言います。
地名の高野もそこから来ていると言われています。
「高野」の由来ですが、平安京遷都の際の「御狩野」の「鷹野」に
由来しているそうです。
また、高野川は大原では「大原川」、八瀬では「八瀬川」とも
呼ばれているそうです。
高野周辺の建造物
・洛北阪急スクエア
・左京郵便局
「荒神口(こうじんぐち)」
河原町通りにある小さな交差点です。
京都七福神の一つで「清荒神護浄院」に由来し、
「荒神さん」とも呼ばれていて火の守護神でもあるそうです。
京の七口でもある『荒神口』。
京の七口とは、京都と日本全国を結ぶ街道の出入口のことです。
荒神口の交差点の東側、鴨川には「荒神橋」という橋がかかっています。
かつては、ここから鴨川を渡って京の外に出る。
いわゆる志賀越え(山中越え)で比叡山を越えて、近江(滋賀県)まで行くことができました。
現在でも荒神橋の東詰から、北東方向へ斜めの道が走っており、志賀越えと言います。
つまり、ここは洛中から洛外へ出る「七口」のひとつだったわけです。
荒神口周辺の建造物
・護浄院 (清荒神)
・荒神橋
・京都府立医科大学附属病院 等