古都ブログ
荒神口(京都交差点名・上京区編②)
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「荒神口(こうじんぐち)」
河原町通りにある小さな交差点です。
京都七福神の一つで「清荒神護浄院」に由来し、
「荒神さん」とも呼ばれていて火の守護神でもあるそうです。
京の七口でもある『荒神口』。
京の七口とは、京都と日本全国を結ぶ街道の出入口のことです。
荒神口の交差点の東側、鴨川には「荒神橋」という橋がかかっています。
かつては、ここから鴨川を渡って京の外に出る。
いわゆる志賀越え(山中越え)で比叡山を越えて、近江(滋賀県)まで行くことができました。
現在でも荒神橋の東詰から、北東方向へ斜めの道が走っており、志賀越えと言います。
つまり、ここは洛中から洛外へ出る「七口」のひとつだったわけです。
荒神口周辺の建造物
・護浄院 (清荒神)
・荒神橋
・京都府立医科大学附属病院 等
上七軒(京都交差点名・上京区編①)
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「上七軒(かみしちけん)」
京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街です。
室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てられた
ことが「上七軒」の由来とされています。
その後、1587(天正15)年、8月10日、豊臣秀吉が北野で大茶会を催した際に、
秀吉が「茶の湯に熱心な者は、若い者も町人や百姓も身分を問わず来座を許す」と布令を発したため、
人々は喜んで洛中はもちろんのこと、洛外からも大勢が集まってきて、北野は賑わったそうです。
お茶屋さんが軒を並べる上七軒の町並みは、
時折舞妓さんが歩く姿が見られ、花街の京都ならではの情緒があります。
京都には上七軒のほかに、祇園甲部・宮川町・先斗町・祇園東の五つの花街がありますが、
もっとも伝統が古く格式が高いのがこの上七軒といわれているそうです。
ちなみに、「上七軒」の読み方ですが地元住民の方々は「かみひちけん」と呼ぶそうです。
上七軒周辺の建造物
・上七軒 西方尼寺
・上七軒歌舞会
・北野天満宮 等
柊野別れ(京都交差点名・北区編④)
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「柊野別れ(ひらぎのわかれ)」
なんとも寂しいような雰囲気ですが由来とは。
交差点の北方向には現在、京都産業大学があります。
しかし昔、そこには処刑場があったそうです。
処刑される罪人の家族は、この交差点から先へ罪人に付いていくことが許されず、
この交差点で別れを惜しんだそうです。
そのようなこともあり、いつからかこの交差点は「柊野別れ」と呼ばれるようになったのです。
今は車と人が行き交う単なる交差点に過ぎませんが、
その昔は罪人とその家族にとっての永遠の別れの場所だったようです。
しかし実際、この交差点から貴船方面へ行く道と雲ヶ畑方面に行く道に分かれており、
“道が分かれるところ”という意味もあり名づけられたとも言います。
近隣には京都でもっとも古い神社「上賀茂神社」があり、地元や観光の人々で賑わっています。
柊野別れ周辺の建造物
・上賀茂神社
・京都産業大学
・京都ゴルフ倶楽部 上賀茂コース 等
鷹峯(京都交差点名・北区編③)
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「鷹峯(たかがみね)」
鷹峯とは「鷹の山頂」を表す。
由来としては、かつて貴族の間で鷹狩りがスポーツとして
流行っていた頃にその地域が皇室の狩猟地であったことからそう名付けられたそうです。
そしてなにより驚きなのは、鷹峯の標高の高さです。
京都市北区に位置する鷹峯は、なんと京都タワーと同じ高さの標高なのです。
そして鷹峯にはたくさんの寺社仏閣が立ち並んでおり、
「そうだ 京都、行こう。」で紹介され、
さらに有名になった「源光庵」も鷹峯にあります。
鷹峯の寺社仏閣では四季折々を感じられるのもまた有名です。
鷹峯周辺の建造物
・光悦寺
・源光庵
・圓成寺 等
大将軍(京都交差点名・北区編②)
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「大将軍(タイショウグン)」
大将軍八神社(タイショウグンハチジンジャ)が由来。
桓武天皇が794年(延暦13)王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、
王城鎮護の神様として厚い信仰を受けてきました。
平安時代には、
祗園(八坂神社)、日吉(日吉大社)、賀茂社(上賀茂・下鴨神社)
とともに霊験あらたかな神として歌われるほどの社だったそうです。
現在では、
建築・移動・引っ越し・結婚・旅行・交通など
あらゆる方位の厄災から守ってくれる神様として崇敬されています。
大将軍周辺の建造物
・大将軍八神社
・島津アリーナ京都 (京都府立体育館) 等