古都ブログ
鴨川納涼床
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皆さんご存じだと思います「鴨川納涼床」ですね。
去年からコロナの影響で心配されていましたが、
木屋町二条から五条までの間の禊川の上に床が並び、
今年も無事に納涼床が開催されるとワクワクしてきますね。
2021年も京都鴨川納涼床は5月1日より83店舗が営業を
始めておられるそうです。
さらに、例年は5月~9月末日までの開催でしたが、
本年度に限り、5月~10月末日まで開催期間を
延長されるとのことです。
コロナ禍で中々外食というわけにもいかないですが、
納涼床であれば屋外、蜜も避けての食事ができそうですね。
鴨川納涼床の歴史はご存じですか?
実は江戸時代から始まっていたそうなんです。
戦乱の後、豊臣秀吉の三条、五条橋の架け替えなどを経て、
鴨川の河原は見世物や物売りで賑わっていたそうです。
それに伴い、富裕な商人が見物席を設けたり、
茶店ができたりするようになり、それが納涼床の始まりだそうです。
毎年恒例の鴨川納涼床も納涼床を許可する窓口があり、
京都鴨川納涼床協同組合(前・鴨涯保勝会)は
「納涼床設置規則」を定め、納涼床の文化風習を
更なる未来へと伝えるべく尽力されているそうです。
木下順庵邸址
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こちらの写真は
下順庵邸跡(きのしたじゅんあんていあと)です。
木下順庵は京都生まれで、江戸時代前期の朱子学派の儒学者です。
天和2年、幕府に仕えることになり江戸に定住し、
林家以外の民間学者登用の道を開きました。
後に「木門十哲」と呼ばれる室鳩巣、新井白石、
柳川震沢、榊原篁州などを育成したと言われています。
こちらの木下順庵邸跡は
烏丸通から錦小路通を西に入って50mほどにあります。
近辺はオフィス街・飲食店も立ち並んでいるので見落としがちですが、
京都の人はこのように街中に石碑が沢山あるので気にされてない方も多いとか。
ちなみに木下順庵邸跡の隣は現在大人気の「餃子屋さん」!
木下順庵も、まさか自分の家の跡が今は餃子屋さんと知れば驚きでしょう。
お近くを通られる際は餃子屋さんを目印に、
是非「木下順庵邸跡」にも目を留めてみてください。
浅見絅斎邸址碑
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中京区の錦小路通高倉西入南側にある
「浅見絅斎邸址碑」の写真です。
浅見絅斎(1652~1711)とは、近江国高島郡太田村出身で
京都で医学を学び山崎闇斎(1618~82)に心服し入門、
門人三傑の一人となった。
朱子学者として大義名分論を説き、
幕末の志士にその著『靖献遺言』は広く読まれ
江戸末期の尊王思想の大きな影響を与えた方だそうです。
この石標は、浅見絅斎が開いた私塾錦陌講堂の跡を示すものだそうです。
ここは京都大丸の北出入口に面しているのですが、
京都にはまだまだ、日頃見落としてしまいそうな場所に
歴史を感じることができそうですね!
手洗水町
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地下鉄四条駅、または阪急烏丸駅を出て、
烏丸通を北に5分ほど歩いたところにある手洗水町。
手洗水町には烏丸通を正面に見る鳥居が建っています。
この鳥居の奥にあるのは、御手洗井(みたらいい)と呼ばれる井戸です。
この地は古くから祇園社御旅所社務藤井助正の屋敷があった場所で、
庭前に牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)を建てて、
当時は毎朝この霊水を奉供していたということが下の写真から読み取れます。
祇園社は、今の八坂神社のことです。
つまり、ここは八坂神社の御旅所があった場所だそうです。
永禄11年(1568年)に上洛した織田信長は、
御旅所を移転した後も、この井戸水が格別であることを聞き
井戸に施錠し毎年祇園祭の時のみ鍵を開いて
諸人へ神水を施行したそうです。
鳥居には七五三縄(しめなわ)が結ばれています。
これは、東裏の竹やぶから竹2本を伐り取り
山科から丈八の松2本を持参して井前の鳥居に
結び付けて七五三縄を張ることを例としたもので、
現在まで続いているそうです。
地下鉄東西線の工事で平成9年(1997年)
に水脈が途絶えたこともありましたが
御手洗井は今でも清水が湧き出ているそうです。
普段は鳥居の前に柵があって井戸にも蓋がしてあるのですが、
毎年祇園祭が行われている7月14日になると井戸換えが行われ、
7月15日から24日まで井戸が開かれているようなので御手洗井が
開いているのを見たい方は7月15日から24日に訪れると、
見れる可能性があります。
管理しているのは、井戸が町名の由来になった「手洗水町」の人たちだそうです。
このような歴史を今もなお、維持されているのは町の方たちのお陰なんですね。
高瀬橋
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京都府京都市伏見区にある「高瀬橋」です。
最寄り駅は伏見駅です。
桜の時期には周辺に桜が咲き花見をしながら
ゆっくり散歩ができる場所です。
沢山の人が訪れる地元では有名なスポット☆