古都ブログ
近畿電気通信局管内自動式電話交換創始ゆかりの地
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京都の中心部ともいえる、烏丸御池にある
「新風館」というレンガ造りの建物があります。
現在はオシャレな商業施設となっていますが、
実はこの「新風館」、建物が保存建築の指定を受けているそう。
この建物は 元は「京都電電ビル西館」で、
更にその前は「京都中央電話局」だった。
大正15年に電話局として建築されたが、
電子交換の普及などにより遊休スペースとなったが、
2001年から「新風館」となったようです。
写真に写っているのは、プレートの記念碑である。
京都の人はよく通る道で目に入っていても
記念碑だと認識されている方も少ないかもしれませんね。
いまでもオシャレにたたずんでいる「新風館」。
こちらの記念碑にも注目したいですね。
京都市立成徳尋常小学校跡
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こちらは、
「京都市立成徳尋常小学校跡」です。
現在はマンションとなっています。
明治2(1869)年、新町通四条下る西側に開校した
下京第九番組小学校は、同9(1875)年この地に移転し
成徳尋常小学校になったそうです。
昭和6(1931)年に下京区高辻通室町西入に移転し、
同22(1947)年新学制のもと中学校になり、
この石碑は成徳小学校跡地を示すものだそうです。
京都では今まで紹介したように偉人の家の跡地の石碑や、
様々な石碑が存在しています。
このように小学校の跡地の石碑は初めて見ました。
歴史を大事にされているということが改めて感じられますね。
鴨川納涼床
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皆さんご存じだと思います「鴨川納涼床」ですね。
去年からコロナの影響で心配されていましたが、
木屋町二条から五条までの間の禊川の上に床が並び、
今年も無事に納涼床が開催されるとワクワクしてきますね。
2021年も京都鴨川納涼床は5月1日より83店舗が営業を
始めておられるそうです。
さらに、例年は5月~9月末日までの開催でしたが、
本年度に限り、5月~10月末日まで開催期間を
延長されるとのことです。
コロナ禍で中々外食というわけにもいかないですが、
納涼床であれば屋外、蜜も避けての食事ができそうですね。
鴨川納涼床の歴史はご存じですか?
実は江戸時代から始まっていたそうなんです。
戦乱の後、豊臣秀吉の三条、五条橋の架け替えなどを経て、
鴨川の河原は見世物や物売りで賑わっていたそうです。
それに伴い、富裕な商人が見物席を設けたり、
茶店ができたりするようになり、それが納涼床の始まりだそうです。
毎年恒例の鴨川納涼床も納涼床を許可する窓口があり、
京都鴨川納涼床協同組合(前・鴨涯保勝会)は
「納涼床設置規則」を定め、納涼床の文化風習を
更なる未来へと伝えるべく尽力されているそうです。
木下順庵邸址
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こちらの写真は
下順庵邸跡(きのしたじゅんあんていあと)です。
木下順庵は京都生まれで、江戸時代前期の朱子学派の儒学者です。
天和2年、幕府に仕えることになり江戸に定住し、
林家以外の民間学者登用の道を開きました。
後に「木門十哲」と呼ばれる室鳩巣、新井白石、
柳川震沢、榊原篁州などを育成したと言われています。
こちらの木下順庵邸跡は
烏丸通から錦小路通を西に入って50mほどにあります。
近辺はオフィス街・飲食店も立ち並んでいるので見落としがちですが、
京都の人はこのように街中に石碑が沢山あるので気にされてない方も多いとか。
ちなみに木下順庵邸跡の隣は現在大人気の「餃子屋さん」!
木下順庵も、まさか自分の家の跡が今は餃子屋さんと知れば驚きでしょう。
お近くを通られる際は餃子屋さんを目印に、
是非「木下順庵邸跡」にも目を留めてみてください。
浅見絅斎邸址碑
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中京区の錦小路通高倉西入南側にある
「浅見絅斎邸址碑」の写真です。
浅見絅斎(1652~1711)とは、近江国高島郡太田村出身で
京都で医学を学び山崎闇斎(1618~82)に心服し入門、
門人三傑の一人となった。
朱子学者として大義名分論を説き、
幕末の志士にその著『靖献遺言』は広く読まれ
江戸末期の尊王思想の大きな影響を与えた方だそうです。
この石標は、浅見絅斎が開いた私塾錦陌講堂の跡を示すものだそうです。
ここは京都大丸の北出入口に面しているのですが、
京都にはまだまだ、日頃見落としてしまいそうな場所に
歴史を感じることができそうですね!