古都ブログ
清凉寺
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清涼寺は、東大寺出身の僧侶、奝然(ちょうねん)が
中国(宋)から持ち帰ってきた釈迦像を安置するため、
1016年に奝然の弟子・盛算によって建てられました。
この釈迦如来立像(国宝)は、
胎内に絹製の五臓六腑が入っていたことから
「生身の仏像」とも呼ばれています。
境内にある一切経蔵の中には、
お経が納められている輪蔵という巨大な厨子が安置されています。
輪蔵は、一度回転させるとお釈迦様がお説になった法典を
すべて読んだのと同じ功徳が得られるといわれ、
平安時代から室町時代にかけて盛んに造られました。
現在は非公開となっている寺院が多い中、
清凉寺の輪蔵はなんと実際に回すことができます。
高さが2m近くある巨大なもので、
美しい装飾が施されているのが特徴です。
ぜひ貴重な体験をしに清凉寺に訪れてみてはいかがでしょう。
瑞泉寺
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三条木屋町の繁華街の中にひっそりと佇む瑞泉寺。
この場所で今から400年前に悲しい事件が起こりました。
豊臣秀吉から関白の位を譲られ聚楽第に住した秀次が、
悪逆の汚名と、謀反の罪を着せられ、切腹させられました。
1595年に高野山で自刃させられた後、
その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原で公開処刑されました。
瑞泉寺に伝わる絵縁起によれば、
一族の遺骸を埋葬した処刑場の地には大きな塚が築かれ、
塚の頂上には秀次の首を納め「秀次悪逆塚」と刻した石塔を据えて
往来人への見せしめにしたという。
16年後、角倉了以が高瀬川の開削の際に荒廃した塚と石塔を発見し、
大層心を痛め、無念の死をとげた一族を弔うためにこの瑞泉寺を建立しました。
六孫王神社
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六孫王神社は、清和源氏の初代・源経基が住んでいた
屋敷跡に建てられた神社であり、
清和源氏発祥の地といわれる由緒ある神社です。
祭神の源経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子であり、
天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれていました。
境内には、源経基が死ぬ間際に
「死んで龍神になり、邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから
この地に葬るように」と遺言したといわれる神龍池があります。
また、六孫王神社はソメイヨシノやしだれ桜など桜が美しく、
黄緑色の桜が咲く、鬱金桜(ウコンサクラ)が有名で
春には境内が華やかになり、たくさんの人が訪れます。
東本願寺
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浄土真宗「真宗大谷派」の本山で、
西本願寺と区別して一般に東本願寺と呼ばれています。
宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって
聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。
これが東本願寺の始まりです。
はじめに出迎えてくれるのは、京都三大門の1つである立派な御影堂門。
境内には、御影堂・阿弥陀堂をはじめ、数々の歴史的建築物が点在しています。
その一つ一つが京都の近代和風建築を代表する貴重な文化財です。
東本願寺は、たびたび火災に遭っており、
現在の建物はいずれも明治時代からの再建ですが、
真宗寺院の典型的な様式と配置で再現されています。
行願寺
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行願寺は一千年の歴史をもつお寺で、
別名「革堂(こうどう)」とも呼ばれています。
行願寺を創建した行円上人は、仏門に入る前は狩猟を業としていました。
ある時、山中で身ごもった雌鹿を射止めたところ、
その腹から小鹿が誕生しました。
雌鹿は血まみれの小鹿の体を舐め愛おしんでいましたが、
そのうち力尽きて死んでしまいました。
その様子を見ていた行円上人は今までの殺生を悔い、仏門に入りました。
行円上人は、死んだ雌鹿の皮を常に身につけていたことから、
「皮聖」「皮聖人」と呼ばれ、
そのことから行願寺を「革堂」と呼ぶようになったそうです。
行円上人が肌身離さずつけていたとされる雌鹿の革衣は、
現在も行願寺の「宝物館」で大切に保管されています。
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